【ゲスト教授】伊東治次 ”駄目で元々、やってみなきゃはじまんない”

写真・記事:瀬尾泰章

海外を旅していて、日本を感じるモノの一つに、醤油瓶がある。今や世界のスタンダードになった、醤油瓶。ニューヨーク近代美術館MoMAのコレクションにまでなった、醤油瓶。それがキッコーマンの醤油瓶だ。このデザインに大きく関わった人物が、今回のゲスト教授、伊東治次さん。

既に他界されているが奥様である伊東三和子さんと共に、2人3脚でこの日本を象徴するカタチをつくったのだ。

伊東さんは、GKデザイングループ会長の栄久庵憲司氏他4名の計6名で、GKデザインを創設したインダストリアルデザイナーの1人だ。現在85歳。既に現役を退いてられるが、クリエーターとしての気概をひしひしと感じる事のできる、そんな人生の大先輩だった。

「駄目で元々、やってみなきゃはじまんない」伊東さんのデザイン哲学だ。

伊東さんは、どういう事で、デザインの道に進まれたんですか?

僕はね、小学校に入る数ヶ月前に父親が死んだの。それで小学校4年生の時に母親が死んだの。両親がいない子ども時代を過ごしたのね。当時は戦時中だった。でも姉のおかげもあり、大きくなれたんです。学校はね、エレベーター式の学校に行っていたから、ずるずると進学していくわけ。終戦後、ぐちゃぐちゃな世の中でね、みんな拠り所がないという時にね、僕もグレる時期もありました。まあ勉強もろくにしないで、いい加減なもんだったんですよ。だらだらとね、してました。そんな事をやってたらね、後で西洋美術館長になった富永さんという方がいらっしゃるんだけど、いろいろ僕の面倒をみてくれててね、「お前みたいなのは、まともに学校行って勉強して、銀行員とかになってもらちがあかない。その前に向いてない」って言うんですよ。「ちょっと勉強したからってね、東京大学に入るのは大変だぞおー」ってね。「今度、” 東京藝術大学 ”っていうので、音校と美校が一緒になってね、日本一ちっちゃな大学になる。ちっちゃい大学だけど、名前は ”東 京 藝 術 大 学 ” だぞ、凄くデカイ大学みたいで、いいから行ってみなさい」ってね。それで藝大にいったのね(笑)

藝大に入ったら、そこに、榮久庵憲司って、変な奴がいてねえ(笑)彼とは同級生なんだけどね。当時ね、まだマッカーサー司令部とかある時よ、彼がね、アメリカっていうのは誰もまだ見ていないんだからね、嘘か本当か見るだけでも見に行こうって言い出した訳よ。アメリカっていうのがどういうのか見に行こう、っていうわけ。もちろん留学試験があるんだけどね。受ける人っていうのは、40才くらいの中年の男性がたくさん受けているわけよね、会社でいう課長級の人がね。僕が「そんな試験は大変だろう」っていったらね、彼は「そんな事ない、中年でまじめに働いている連中を外国に勉強にだしたってしょうがない、留学生っていうのは、若い方から選ぶに違いない。これからの日本を担う若い連中が行ったほうが良いんだから、当然若いのが合格するにきまっているから受けよう」っていうんだよね。結果、榮久庵と僕はうかってね、それでアメリカ留学に行ったのね。期間は大体1年くらいだったかな。藝大に在学中の時でしたよ。

アメリカで「デザイン」を勉強されたんですか?

そう。アメリカでね、何を最初に覚えたかっていうとね「すぐ、やってみる」っていう事ね。やってみないと分かんないじゃん。日本っていうのはね、まず「Thinking now」っていう感じになっちゃうじゃない。だけどこれじゃあ前に進まないよね。すぐにやってみる、これがアメリカの取り柄だよね。

それでアメリカから帰ってきてGKを設立したんですか?

大学4年生の時には、GKの前身として活動していたのね。で、アメリカから帰ってきてから、会社にしたんですよ。それまではなんとなくの学生の任意団体。それでね、モノ好きな人がいてね、自転車屋さんの社長さんでね。そこの社長が、アメリカの有名大学でてんだけど、それが僕たちを面白がってくれてね、金だすからデザインについて一緒にやろうじゃないかって。お金をだしてくれたもんで、GKっていうのが会社としてスタートできたのね。大体「デザイン」っていう言葉自体がなかったんだから、概念が。意巧とか図案とかっていってたからね。GKはね「GROUP OF KOIKE」っていってね、僕らの先生で、小池先生という方がいてね、その先生の名前からつけたんですけどね、あと、その当時、千葉大にも小池先生っていう有名なドクターもいたんだけど、それと区別するためにも藝大の「G」で藝大の小池、GKともいったのね。

「デザイン」って言葉、概念がなかったっていわれましたが、終戦後のアメリカのものをみて、どう思われましたか?

あれはね、非常に刺激の強いものでしたね。ラッキーストライクとか、ハーシーのチョコレートとか。量産っていうことがよくわからなかったからね。これがマスプロダクションかってね。日本はね、量産なんてしているものはあまり無かったんですよ。繊維ぐらいしか。繊維はあっても量産しているっていう実感がないじゃない。ジープなんかがね、無限大に走り出したりなんかするとね、そりゃあびっくりするよ。戦車を簡単にしたようなものが、ネズミのように走り出したりするんだから。進駐軍の上陸っていうのは、そういう近代感を促したっていうかな。驚きっていうのが、カッコいいになっていくんだよね。くわえタバコっていうのが「青年の美学」という感じになっていたんじゃない。スタンダードになっていったんじゃないかなあ。

やっぱりねえ、アメリカからの刺激が大きかったのね。何にもなくなったからある意味よかったんだよ。空襲で灰となったところからの立ち上がりだからね。あまり既成概念に左右されなかったんだね。とにかく真似してみようっていうところから入ったからね。その前のデザインっていうのはね、西洋含め、エリートというか貴族の者の為にあったんだよね。そういうものが上から入ってきて、民主化された。日本は民主化が浸透し始めていたから、わりとスムーズに取り入れられたのかな。量産量産っていうけど、戦後のはじめだからね。今や、日本の自動車がこんなに世界を圧巻するって想像もできなかったよね。インダストリアルデザインっていう言葉もでてきた。工芸の中には、デザインという、そういう思想があったんだよね。貴族のものから、大衆化、民主化されたという事。そして定着していったんだね。

伊東さんが、デザインするうえで、大事にされていた事はなんですか?

あまり難しい事じゃないと思うね。理屈じゃないというか。みんなデザインというものを崇高してね「理の蓄積がデザインをつくった」ような事を言いたがるけどね、それは嘘だよね。そんなはずはないんだよ。感性だと。「あたるも八卦、あたらぬも八卦」だと思うんですよ。例えば、醤油瓶も、これが最初にできた時なんて皆、ふーん、てなもんだもん。最初200万本売れればいいっていって、やっていたものがね、そのうち、600万、もっともっと、で、輸出とか増えて、そのうち10億本とかっていう数になっちゃんだよね。そりゃ、地球の裏側でこの醤油瓶をみるようになるよね。キッコーマンも予想外の出来事だったんじゃないかな。もちろん醤油を世界に広めるという事で進めていたというのもあるけどね。

醤油瓶、これは元々どういう依頼だったんですか?

これはね、まず、醤油っていうのはね、醤油つぎっていうのがあってね、生活の中ではね、醤油つぎに入ってテーブルにでてきた。ビールや牛乳っていうのは、瓶そのままテーブルにでてきたのね。キッコーマンの醤油っていうのはね、台所から1歩も外にでないからね、食卓の ”表舞台” にでてこれない。卓上にね。ビール瓶とか、牛乳瓶は卓上にまででてこれた。卓上にまででてこれると、○○牛乳はいいって事になるし、○○ビールは旨いって事になるしね。だからなんとか、そこまでキッコーマンのマークを引き出せないかっていうね。テーブルの上にまでどうやってだしていくかっていう事。そうしないと、知名度があがらない。食卓という舞台へどうやってだすか。これがポイントだったんですよね。

まあ、いろんなものを考えたんですけどね、これがあたっちゃったんですよね。なぜヒットしたかというとね、当時なかったんだよね、こう一升瓶の上を切っちゃったようなものがね(笑)このつぎ口がね、一升瓶と同じなんだよね。なぜかっていうと、そこが広くないと醤油を足せないでしょ。大きい瓶から、この小さな瓶にね。これは、瓶から瓶へ継ぎ足す大きさの最小限度なんだよね。それで、この瓶がまっすぐ伸びていくと、一升瓶と同じ大きさになるんだよね。

どういうところからそんな発想を?

偶然ですね。まあ、想像で考えたのと、実際に一升瓶を触ったのが同じフィーリングだったんだよね(笑)

これはいいなと、切っちゃえみたいな?

まあ、一升瓶を触ってみてくださいよ(笑)分かるから。

上の赤いのは?

それは、生活の習慣でね、黄色はソース、赤は醤油みないな識別をしていたのね。だからそれに習ったんだよね。そんなに深い意味があるわけじゃないんだよね。

でもやはり、何か深い意味っていうのを、第3者は考えてしまいますよね。

まあ、デザインの哲学って単純なんだから。逆に単純でないと駄目なんだから。だって人が使うものなんだから。生活そのものなんだからね。デザインが神様では使えないんだから。食卓にだす、まずはそこであってね、それがヒットしたから、世界中に広まったという、そういう結果論だからね。ポイントは、台所から食卓へ、なんだよね。台所にあったものを、上だけちょん切ったら、食卓にでれた(笑)なんてね。

伊東さんから若いデザイナー、クリエーターにメッセージがあれば、是非お願いします。

そうね、ちょっと今の若い人のは、マスターベーションみたいになっているなって気はしますよね。今の時代は、いろいろ満ちてるからね。しょうがないけど。おなかがすいているから一生懸命食い物を探すっていうのがないじゃないかなあ。あと、成功する事だけをみているような。近道の方法ばかり考えているというかね。駄目で元々なんだから。やってみようよ。それで駄目だったら、駄目だったというのが、分かったっていうことが大事なんだからね。やってみないとわからないんだから、人生はね。

そして最後に1つだけ言わせてください。醤油瓶、あの形の最終着地点に導いたのは紛れもなく、妻の伊東三和子なんです。あの作品は三和子そのものだと言っても間違いありません。そしてヒットに繋げるキーを握っていたのが、キッコーマンの営業だった吉田さんという方でした。彼女、彼がいなくては、この作品はこれほど皆さんに親しまれる存在にはなり得なかったと思います。そしてもちろん栄久庵憲司はじめGKのメンバー皆ででつくりあげた作品なんです。

あ、瀬尾さん、家に帰ったら、一升瓶触ってみてくださいね(笑)

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※左から、伊東治次さん。伊東三和子さん。そして一番右が、吉田さん。

※伊東三和子さん。息子さんいわく「ヒット作をバンバン出すキャリアウーマンの母」だったようです。

※野田醤油(キッコーマンの前身)にて、打ち合わせ。

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written by

ウラハラ藝大代表 Photographer | 写真家

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