【シルバー教授】高下正勝 ヒロシマ8月6日の行動

写真と記事:瀬尾泰章

2009年8月6日。
原爆投下の日から数えて、64回目の夏がきた。

広島出身の僕にとって、『8月6日』という日は、子どもの頃から特別な思いがある。

今年も、朝8時15分、黙祷をしこの日、この時の事を思った。

高下正勝さん、76歳。
当時、高下さんは12才。今でいう中学校1年生だった。

実はウラハラ藝大・島本直尚校長のおじさんにあたる。

年々少なくなる、被爆体験者。戦争を知らない、僕たちの世代にとって今やれることは、こうやってしっかり記録していき、そして後世に伝えていくことだろうと思う。

高下正勝さんも、もしあと、10分、15分原爆投下が遅れていたら、爆心地のすぐ近くにいて命はなかったかもしれないといわれた。

1人1人違う被爆体験。それぞれの1日は、それぞれの記憶となって、忘れたくても忘れられないことだと思う。

被爆体験(昭和20年8月6日の行動)

当時私は、県立広島商業学校の1年生で12才でした。学校は、皆実町の元広島県師範学校の2階建ての木造校舎を使っていました。

生徒数は、1年生だけで250人位いました。2年生以上の生徒は軍事物資の工場などに繰り出されていて、1年生だけが登校していました。8月からは登校しても授業ではなく、毎日竹屋町へ建物疎開作業に行っていました。被爆当日も、登校して2階の教室に、上着と弁当の入った下げ靴を置き、Tシャツに戦闘服、ゲートル、地下足袋の姿で運動場に出て、建物疎開作業に出かける前の朝礼の時間を待っていました。なかには棒を持って、生徒同士で悪ふざけをしながら走り回っていたり、いつもと同じ朝の光景でした。先生方はまだ職員室から出ておられなくて、生徒だけが朝礼隊形に並ぼうとしている時のことでした。

ピカッと突然の強烈な閃光と熱風に思わず両手で目と耳を塞ぎ、地面に伏せました。暫くして周りから、叫び声や足音が聞こえてくるようになり、立ち上がりましたが、辺り一面煙や砂ぼこりに被われて、視界が1・2メートル位しかありませんでした。足音がする方へ進むと何人かの生徒がある方向へ歩いており、運動場の端のコンクリート塀を乗り越えて外にでているのです。私も後を追いました。そのうちに次第に視界が開けてきました。

たまたま1人の先生と5・6人の生徒が一緒になり、先生の指示で避難のため比治山に登ることになりました。途中で気がつくと、全員顔や手などに大なり小なり火傷をしていました。私も友達に言われて、顔の左半分と胸に火傷をしており、戦闘服やズボンの一部が焼け焦げていることが分かりました。それまで感じなかった火傷の箇所が急に痛くなり、熱くなりました。

比治山に登ると兵隊さんから、すぐに防空壕へ避難するように命じられ、一行は1時間以上防空壕の中で座ったまま避難していました。避難している最中に、急に夕立のような雨が降ってきました。それが後から分かった黒い雨だったようです。

雨も止んで、一行は防空壕からやっと出ることが許され、広島市内を展望できる所へいきました。見下ろすと市内の家屋は崩壊し、多くの火災が発生しており、黒い煙が上空を被っていました。周囲の山々も数カ所から火の手が上がっていました。私たちの学校も完全に倒壊しているのが、眼下に見えました。後から気がついたのですが、倒壊した2階の教室に置いていた上着のポケットには、芸備線の定期券や財布も入れていましたが、どうすることもできませんでした。

その後、家に帰る方向が違うため、一行と別れて一人で東側から下山しました。段原町から東雲町に行き、偶然、道具小屋の日陰に座り込んでいる同級生と出会いました。その同級生も顔に火傷をしていました。可部から通っている生徒でした。その間に何回も空襲警報や警戒警報のサイレンが聞こえ、近くのきび畑の中に横になって避難したりしていました。昼食もとれないまま、疲れもあって、そこで2・3時間は寝たりして過ごしました。

彼は可部線、私は芸備線と帰る方向が違っていましたが、彼が広島駅まで一緒につきあってくれるということになり、宇品線の鉄橋を渡ったりして、猿猴橋通りにでましたが、途中で異様な異臭が漂っていて、家は焼失しており、市内電車が焼けて鉄筋だけになっていました。目指す広島駅は物凄い炎を上げて燃えており、客車や貨物列車も炎上していました。

私は芸備線で帰るのを諦め、彼と一緒に可部線に乗って帰ることにし、横川駅を目指して線路沿いに歩きました。

途中で女の人の黒焦げ死体をみました。辺りの家々は焼失しており、横川駅も大火災でした。仕方なく、歩いて帰るしかないと言いながら、可部線沿いに歩きました。2つ目の駅の長束で電車が止まっていました。時刻は既に夕方の7時頃でした。可部までの折り返し運転をしていて、午後8時に出発するとの事でした。駅の近辺で約1時間待って発車前の電車に乗りましたが、車内で私たちの前に来られた女性からむすびを一つずつ貰いました。昼食も食べられなくて空腹のまま歩き回った後だけに、よけいありがたく、いつまでも忘れられない思い出になっています。電車は可部の1つ前の中島駅で彼と別れて下車し、真っ暗い夜道を約30分歩いて、午後9時頃やっと深川の我が家に辿り着きました。帰宅が遅くなり、家族全員が大変心配して待っていたようです。


大きな地図で見る

貴重な被爆体験を僕たち2人にしてくださった。

この日の事を話されない方も多い。それは、その日がどれだけ悲惨だったのか、その方々の気持ちを考えるとそうだろう。

僕たちが、おじいさん、おばあさんになったとき、今のこの時代を楽しく語れるそんな日々にしていかないといけないなと思う。高下さんのように被爆体験を語ってくださる事、この惨劇を二度と繰り返してはならない為の教えがたくさん詰まっていた。

Share on Facebook

written by

ウラハラ藝大代表 Photographer | 写真家

Leave a Reply

Want to join the discussion?
Feel free to contribute!

コメントをどうぞ